なぎさにふたり

マッチングアプリ文学

話の通じない彼

極論、片想いも暴力だし、ボディタッチも暴力である。
唯一暴力の定義を外れるために必要なのが、ふたりのあいだの合意である。
心も身体も、一方的に欲されるのはそれだけで有害だ。欲した以上は見返りを求め、焦がれた以上は満たされたいと願う。相手にいつか「そろそろ寄越せ」と喚き立てる。

わたしはかつてより、ずっとそう信じている。


前回の記事でも書いたが、本当はもう2人の時間が耐えられなくてデートの中止をそれとなく申し出たことが幾度かある。大概夜に会うのは怖いからという理由できれいな街で昼に会い、この人とこの場所にはもう居たくないな、となったタイミングで、なるべく傷つけないよう申し出る。

その場で傷つけないように申し出るのは、わたしが優しいからではない。女体を持つ身分で、男を逆上させたくないからだ。

なのに「ひとりで買い物にいくから、さよなら、ありがとうございました」と言えば、察して切り上げてくれる人たちばかりではない。頭のおかしな彼らの場合、平気で「俺もいくよ」などと宣う。本当はわたしに買うものなんてないし、本当だったら駅に向かってさっさと帰りたい。口実のために行きたくもない店に行くことになり、男は勝手について来るくせに荷物持ちもせず、何かを褒美に買うわけでも無く、当然話も面白くなく、貴様と歩くのに何の得があるのか。

振り切るためには「実は午後から美容皮膚科の予約が入ってました」とでも言えばいいんだろうか?しかし、きっとその類の人たちは「せっかくのデートなのに病院の予約入れたなんて」みたいな軽い呪いごとは平気で言ってくるだろう。
ほんとうに頭がおかしい。わたしはこんなにも彼らを嫌って信号を発しているのに、彼らは一切感じ取ろうとしない。
彼らはきっと、自分と過ごす時間がわたしにとって損害であり、自分の言葉がわたしとって雑音にちかく、自分の行動がわたしにとって暴力にひとしいと気づいてすらいないのだ。
彼らがわたしに価値を感じなくなるまで、わたしは苦しい思いをする。

「察して欲しいなんて無理だよ、はっきり言ってくれたらいいのに!」と頭のおかしな男ほど言う。嘘がすぎる。正常な人なら察するまでも無く嫌なことをしないもの。異常な人にはっきり言ったところで、機嫌を損ねて害意を向けてくると知っている。
どう考えても繫ぎ留めたいあなたは詰んでいるし、どう考えても逃げたいわたしも詰んでいる。



過去、いくつか歳上の精神科医の男性とアポイントを取ってランチに出かけた。会話がなかったわけでもないのだが、どことなく受け答えから漂う薄気味悪さを理由に、食事後わたしは上記のとおり「私物の買い物に行きます。1人で見たいのでこのへんで」と言った。
しかし彼は店を出たあとをついてきた。
「俺も着いていっていいんですよね?」
「……」
言葉を失う。こんな人間が精神にかかわる仕事をしているなんて心底呆れる。インチキ呼ばわりされるメンタリストのほうがよっぽど人間の心を理解しているのではないか。
何も話したくない。2、3回まばたきののち、わたしは道を急ごうと前を向く。息つく間もなくMA-1を着たわたしの腕に後ろから何かが触れた。しゃり、という音を聞いてわたしは反射的に肩を縮めてそれを避ける。
「ふふふ」
再び振り返ると、彼は神経質そうな指をぎこちなくうごかし、口許をムズムズとさせて笑っていた。これはこのまま逃げたらもっとダメなことになりそうだと悟り、わたしは肩をすくめて「お店、あっちです」と言った。彼はほんのすこし恥ずかしそうに「楽しみですね」と相好を崩していた。
彼が笑った顔を見たら、何かがひとつ減った気がした。


「……なんであんな暴力的なことしたんですか?本当に嫌だったのですが」
帰宅後ラインでの問いかけに対して、精神科医の彼は、あれは手を繋ごうと思ったのだと答えた。けれど、わたしはそれをまぎれもない加害だと思ったし、一種の暴力だと思った。
会って間もない信頼関係のない人間に合意もなく突然腕を掴まれて、不快にならない人間がどこにいるのだろう。
デートの最中、インテリアのお店に入ると彼は何かと口実をつけてわたしの指に触れては、その小物は尖っていて危ないですよ、などと嘯いた。
女児扱いするように、道端の猫に話しかけるように、声から限りなく知性を省いて何度も語りかけてきた。
──指きれいですね。
合意のない慰撫など不快なばかりで、心からこの男から見下されているのだとわたしは思い知った。

「あれ、一種の暴力ですよ。勝手に撫でたり摩ったり薄気味悪い」
「暴力…?笑」
「はい」
「大人にもなるとわざわざ手を繋ごうとか言わないものだと思いますが」
「今はわたしが嫌だったという話をしていますから、常識をあたるのは適切ではないですね」
「嫌だったんですね」
「わたしのこと、合意なく腕を掴まれて喜ぶ薄弱な人間だと思いました?」
「俺も焦っていました。みつぎさんが可愛いから」
めんどうな訴えだが納得してやるかとでも言わんばかりの返事を聞き、心はすうと冷えていく。こんなにも話が通じない人間が患者の主訴を聞き届ける仕事をしているなんて、心底気分が悪い。

本当に尊い出会いだと思ったら相手の心も顧みず体に触ったりはしない。焦っていたなんて口実で、あさましくて見え透いた嘘だ。
本当に愛らしいと思ったのなら相手を軽んじて不躾に領域を侵そうとなんかしない。そんな馬鹿な言い訳に騙されてやるほどわたしは、

「可愛くないですよ」
「いやいや」
「だいいちチョロそうのこと可愛いって言うのやめません?しょうもない」

既読だけが付く。先程までポコポコと通知を鳴らしていたのがぱったりと止み、もうわたしの指は止まらない。

「キモすぎ…根暗顔でニタニタ笑って相手の話もろくに聞かないんじゃ不気味すぎて職場で浮いてるよね?」

嫌い!嫌い!嫌い!

「普段ろくすっぽ人から話聞いてもらえないからカフェでわたしに話ちょっと聞いてもらっただけでデート延長したくなっちゃうんでしょ?」

嫌われたい!嫌われたい!嫌われたい!

「先生って呼ばれたときチョ〜嬉しそうにしてましたよね。憧れの仕事つけてうれしいね?夢語れて気持ちよかったね?普段はぜ〜んぜん頼りにされないんだもんね?」

死ね!

最後まで既読がついたのを確認してブロックする。どうせメンヘラが発狂したとでも思ってるんだろう。別にそれで構わない。何でもいいから嫌われたかった。
マッチングアプリでよかったと思う。正確な職場も家も知られてなくて良かった。

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男性による女性へのストーカー被害を知るたびに、毎回憤懣やる方ない気持ちになる。
ワイドショーでもネットでも、被害者側に工夫を凝らした自衛を訴えかける。
どうやら嫌な人と距離を置くには、嫌われるのがいちばんらしい。本当におかしな話だと思う。こっちが嫌いになったら離れて欲しい。どうして相手がわたしを、男の人が女の人に飽きて嫌いになるまで待たないといけないんだろう。自衛だってコストがかかると言うのに。いやです、わかりましたやめます、として欲しいだけなのに。拒絶されると「そんなつもりはなかった」と、さも正当性が自分にあるかのように言葉を並べる。
つもりも何も知るか。嫌だから嫌だって言ってんだよ。
男の人は気安く女の人に触れるし誘える。下手打って殺される可能性がないからだ。持ち合わせる猜疑心だって少なくていい。

頭のおかしな加害者に何を言っても無駄という意見には首肯せざるを得ない。正常な人間に自衛を訴えかけるのなら、相手にだってもっとたくさんの苦痛や困難や罰があって欲しいと願ってしまう。この願いが正しくなくとも、願うことくらいは許されたい。